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読書エッセイ

(大学1-2年生に薦めたい本)

 

北大公共政策大学院修士二年 濱田治寿

2012/06/02

 

(1) The Catcher in the Rye J.D.サリンジャー

(2) 宮沢賢治全集 (ちくま文庫) 宮澤賢治

(3) 銀河鉄道の夜 宮澤賢治

(4) かえるくん、東京を救う 村上春樹

(5) 草の花 福永武彦

(6) トーマの心臓 萩尾望都

 

 


 

The Catcher in the Rye

J.D.サリンジャー 村上春樹訳

 


 

主人公のホールデン少年は頭が良すぎるために、大人の「インチキくささ」が気になってしょうがない。かなりの社会不適合者である。ホールデンは学校を退学になる。勉強ができなかったからじゃない。「インチキな連中がうようよしている」ことに耐えられなかったからだ。このアメリカ版人間失格 というべき本は、ホールデン君が放校処分になって、家に帰るのが嫌で、ニューヨークをぶらぶらするというあらすじである。三日間で20人以上の大人と出会うのだが、みんな「インチキくささ」があるから、彼の理解者はいない。唯一の理解者は妹のフィービーだけ。その妹に「けっきょく、世の中のすべてが気に入らないのよ」と言われて、「ライ麦畑の守護者になりたい」と答えるホールデン君。彼にとって「守護者」になってくれる可能性のあったアントリーニ先生は、学問についてかなりいいことを言っているのだが、結果としてホールデンを裏切ることになる。いや、裏切ったと思わせてしまうのだ。この点、野崎訳と村上訳を読み比べてほしい。村上訳だと、自然な愛情表現のようで結構私は好きだ。アントリーニ先生は寝ているホールデンの頭の上に手を置いている。村上訳だとアントリーニ先生の行為は広い愛情に支えられたものとして書かれているが、野崎訳だと裏切り行為のように書かれている。

 

語れない(ディスコミュニケーション)ということを語ることによって伝えるということについて

 

ライ麦畑でつかまえて は主人公の饒舌体が特徴としてあげられる。この小説は不思議なことに これだけホールデン君が語っているのに彼の内面性が見えない。彼は事物との関係性は語るが、自他の内面には触れない。自分の心を隠しているし(彼のウソの多さ!)他者の心理描写は弱い。

 

「君」という自分を絶対わかってくれる他者を想定しながらしゃべるという構造を読者が読むという手の込んだ作りになっている。とするならば、「僕」と「君」という閉じた回路の中でのおしゃべりを、読者は傍観しているということになる。読者はホールデン君に感情移入すればするほど、構造的にホールデン君と読者の乖離は増すというパラドックスに陥る。なぜならば、ホールデン君は、コミュニケーションを諦めきっているからだし、その上でウソを言う。僕はウソつきだという宣言は、読者との断絶の宣言にも読める。しかし、あえてそれを言うのはなぜだろうか。それは自分は伝えられないことがある ということを伝えるという行為ではないだろうか。私は構造的に読者と主人公が乖離していくのは何の意味があるのか考える。それは、自分のことはだれも分かってくれないということを伝える手段だったのだ。

 

自分の気持ち(傷・孤独)は自分に固有なもので、相手に安易に理解されることを拒む。しかし、この理解されたくないという気持ちを理解してもらいたいとは願う。それが他者に伝わった時に、語れないことが語られたのだと思う。

 

ホールデン君はさんざん語るのだけど、最終的には語れない(読者には伝わらない)ってことを伝えたかったのだ。

 

こう長く書きましたが、伝わらないと思う。僕が伝えたいのは、伝わらないってこと。それが伝わったら十分。禅の話みたいですね。

 

フィービーが言う

「けっきょく、世の中のすべてが気に入らないのよ」

「なんでもかんでもが気にいらないのよ」

「気に入っているものをひとつでもあげてみなさいよ」

 

ホールデンはフィービーに「将来何になりたいか」と聞かれて、こう答える。

「でもとにかくさ、だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、

小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、

僕はいつも思い浮かべちまうんだ。

何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。

つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。

僕のほかにはね。

それで僕はそのへんのクレージーな崖っけぷちに立っているわけさ。

で、僕がそこで何をするかっていうとさ、

誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。

つまりさ、よく前をみないで崖の方へ走っていく子どもなんかがいたら、

どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。

そういうのを朝から晩までずっとやっている。

ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。

 

 


 

宮沢賢治全集 (ちくま文庫) 宮澤賢治

 

1933911日 柳原昌悦あて 封書
(表)稗貫郡亀ケ森小学校内 柳原昌悦様 平安
(裏)九月十一日 花巻町 宮沢賢治(封印)〆

 


 

『八月廿九日附お手紙ありがたく拝誦いたしました。あなたはいよいよご元気なやうで実に何よりです。私もお蔭で大分癒っては居りますが、どうも今度は前とちがってラッセル音容易に除こらず、咳がはじまると仕事も何も手につかずまる二時間も続いたり、或は夜中胸がぴうぴう鳴って眠られなかったり、仲々もう全い健康は得られさうもありません。けれども咳のないときはとにかく人並に机に座って切れ切れながら七八時間は何かしてゐられるやうなりました。あなたがいろいろ想ひ出して書かれたやうなことは最早二度と出来さうもありませんがそれに代ることはきっとやる積りで毎日やっきとなって居ります。しかも心持ばかり焦ってつまづいてばかりゐるやうな訳です。私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。僅かばかりの才能とか、器量とか、身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものででもあるかと思ひ、じぶんの仕事を卑しみ、同輩を嘲り、いまにどこからかじぶんを所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ、空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず、幾年かゞ空しく過ぎて漸く自分の築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては、たゞもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です。あなたは賢いしかういふ過りはなさらないでせうが、しかし何といっても時代が時代ですから充分にご戒心下さい。風のなかを自由にあるけるとか、はっきりした声で何時間でも話ができるとか、自分の兄弟のために何円かを手伝へるとかいふやうなことはできないものから見れば神の業にも均しいものです。そんなことはもう人間の当然の権利だなどといふやうな考では、本気に観察した世界の実際と余り遠いものです。どうか今のご生活を大切にお護り下さい。上のそらでなしに、しっかり落ちついて、一時の感激や興奮を避け、楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないもの
は苦しんで生きて行きませう。いろいろ生意気なことを書きました。病苦に免じて赦して下さい。それでも今年は心配したやうでなしに作もよくて実にお互心強いではありませんか。また書きます。』

 

悲痛を突き抜けた地平線上に賢治は存在している。賢治は小さな我を捨て、他者の為に生きたかった。しかし、最終的には自分と言う存在が自分の願いとのとの祖語を大きくした。その乖離が彼には耐えがたいものであった。アリストテレスは、石を天に投げても地に落ちるのは、石が天ではなく地に属しているからだと説いた。これと同様に、人間存在は本質が悪なのだから人間は完全な善行をおこなえない。不完全な人間でありながら完全な人間であることを狂おしいほど希求し、最後にそれとの断絶をクリアに見てしまった。そこに悲劇がある。彼は「雨ニモマケズ」のメモの前後に文章を書いている。「快楽もほしからず。名もほしからず。 いまはただ 下賎の廃躯を 法華経に 捧げ奉りて」

「南無妙法蓮華経 南無釈迦牟尼仏 南無浄行菩薩」法華経、そして題目が延々と書かれているのをみると奇異な感じがするかもしれない。彼は宗教にすがったのではない。むしろ宗教的な意思から出発している。人々の為に生きることを覚悟した賢治は、自己という問題に苦悩する。最後まで苦悩する。他者、人類全体の幸福を願いながらも、どうしても自我の問題からはなれられなかった。ここでもう一つ彼の自我の動きをみる作品を紹介したい。

 

『眼にて伝ふ 

 

だめでせう

とまりませんな

がぶがぶ湧いてゐるですからな

ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから

そこらは青くしんしんとして

どうも間もなく死にさうです

けれどもなんといゝ風でせう

もう清明が近いので

あんなに青ぞらがもりあがって湧くやうに

きれいな風が来るですな

もみぢの嫩芽と毛のやうな花に

秋草のやうな波をたて

焼痕のある藺草のむしろも青いです

あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが

黒いフロックコートを召して

こんなに本気でいろいろ手あてもしていたゞけば

これで死んでもまづは文句もありません

血がでてゐるにかゝはらず

こんなにのんきで苦しくないのは

魂魄なかばからだをはなれたのですかな

たゞどうも血のために

それを云へないがひどいです

あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが

わたくしから見えるのは

やっぱりきれいな青ぞらと

すきとほった風ばかりです。』

 

 

冒頭、自分の命が危機にさらされているのに、他人ごとのように書いていることに衝撃を受ける。自分の命が静かに終わりを迎えようとしているそんな静けさ。

中盤も、自分の辛さを訴えるのではなく、ただ医師への気遣いを示している。ただただ静けさがあります。

 

吐血を繰り返す自分を客観的に描写し、冷徹に「もうだめだ」と判断している。

その後視点は自分に戻り、気持ちの良い風を感じている。中盤は医師に対する心遣いまでしている。

ここまで読むと、単に自分の命が離れていく際の様子を淡々と書いたものとして読まざるを得ない。

詩を目前にして、穏やかな心であると読める。

しかし、ラストの4行で圧倒的な盛り上がりを見せる。最後の最期まで、賢治はきれいな青空とすきとほった風を見ていたのだ。

みじめに死んでいこうとする中で、かれは美しいセカイを見ていたのである。私はその、賢治の観念性の高さに心打たれる。

人間は観念的な存在である。そして私は、それはそれで素晴らしいことなのだと信じている。何かの価値を思い込み、それを追い求める姿勢、俗世とは別の高邁なものを希求する精神。これは本当に必要なものであると思う。観念は、現実には存在しない。

それゆえ、対象との距離があればあるほど、その思いは狂おしくなる。観念があるからこそ、観念にたどり着かないで挫折したり、執着したり、みっともないことをしたりする。賢治は、本当に、すきとほった空に達することができたのか。私は逆に、透明な空とそれに一体化しようとしても拒絶される苦しみしかなかったのではないかと思う。確かに、観念や理想を持たなければ、苦しむこともすくないだろう。ありのままの自分。現在の自分を大切にしようという考えだ。

しかし、それでも観念を求めてしまう。なぜならば、生きることではなく、善く生きることが最も大事なことだからである。

理想を求め真摯に苦しんでいる賢治をみて、人生は苦しみや翳りがあるからこそ素晴らしい。

北極星を目指すからこそ、北極星にはたどり着かないが北には行くことができる。観念とは北極星なのだ。決してたどり着けないがゆえに尊い。北極星を目指しながら、人は泥水の中をあるいたり、つまずいたりする。人間の有限性に気付く。そして観念の無限性に感嘆する。

賢治の詩は、有限なる存在が無限なるものとの合一を果たしたようにみえるため、迫力があるのである。しかし、不穏さもある。

詩に出てくる、死を予告するような不吉な黒いコートの存在である賢治はたぶん、無限なるものから裏切られるのだろう。有限の身には無限は重すぎる。

その時の賢治の絶望の深さを考える。それでもなお、苦しみながらもまた観念を求めて生きていく賢治の姿に私は心を打たれるのである。

観念の世界ばかりに生きてもだめだし、世俗的な生活だけもだめ。観念を狂おしいほど追い求め、裏切られ、それでも希求してしまう

その姿にこそ私は感動する。

 

 


 

銀河鉄道の夜 宮澤賢治

 


 

ケンタウルス祭の夜 

少年ジョバンニは銀河鉄道に乗り、親友カムパネルラと旅にでる。

ほんとうの幸福とはなにかを求めて

 

旅の途中でジョバンニ達は様々な人と出会う。そしてみんなの幸を願うことが本当の幸なのだ・・・と気付く。

他者への献身こそが本当の幸い。

 

「ほんとうのしあわせは何だろう」ジョバンニは問う

「ぼく わからない」カムパネルラは答える

「またぼくたち二人きりになったねえ どこまでも どこまでも 一緒に行こう」

無言

そしてカムパネルラの消失。

 

ジョバンニは子供たちからも大人体からも疎外されている。そして自分自身からも。

ケンタウルス祭にもいけない。そんな孤独の中を生きている。

ジョバンニは本当のさいわいを求めてカムパネルラと旅をする。

 

鳥捕りとの出会い。鳥捕りに対して当初は馬鹿にした態度であったが、最後には自分の持っているものをすべてあげたい。献身したいという気持ちが芽生える。

 

「僕はあの人が邪魔なような気がしたんだ。だから僕は大変つらい」明確な心の変化。他者への気遣いへの目覚め。ジョバン二はまだ自分の心が分からず「へんてこな気持ち」の中にある。

 

青年との出会い。船が氷山にぶつかり、おぼれ死んだ青年と子供たちとの出会い。

青年は「子供たちを助けたい」「他人が死ぬのもつらい」「子供たちに神にそむく行動をとらせられない」「自分も神にそむく行動をとることができない」という中で、子供たちを助けることを放棄した。ジョバンニは幸の取捨選択を行わなければならない事に気付く。しかし、取捨選択してしまったらほんとうの幸ではありえない。誰かの犠牲の上にたつ幸は本当の幸ではない。ジョバンニは苦悩する。

「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。」

 

蠍の話

ジョバンニは少女から話を聴く。

いたちに食べられそうな蠍が井戸におちる。蠍は後悔する。自分は無駄な命であった。いたちに食べられていたら、いたちの生命を一日ながらえさせたのに。と激しく後悔する。

そして蝎は、みんなの幸のために犠牲になりたいと望む。

 

ジョバンニは蠍の話を聴いて、ほんとうの幸いにために行動しようと決意する。

 

しかしカムパネルラへの抑えきれない独占欲や嫉妬心に苦悩するジョバンニ。

みんなのさいわいを求めつつも、自分の理解者と二人きりでいたいとのぞんでしまう矛盾。純粋すぎる感情ゆえの苦悩。人類全体の幸福を願いながらも、具体的な個人との関係を願ってしまう。理想を追求しながらも人間らしい感情を捨てられない弱さ。

崇高なものに恋い焦がれながら、そのはるか手前でもがき苦しむジョバンニ。彼はカムパネルラのことが本当に好きだったのだ。しかし彼と対比することで見えてくる自身の卑小さ。俗物さ。相手に惹かれるがゆえに自身との疎外が生じる。相手と一体になりたい気持ちと自分から離れたいという気持ちが同時に存在する。そのこと自体、彼には苦悩だったはずだ。ジョバンニはいう。「ぼくはもっとこころもちを大きくしないといけない」

ジョバンニは葛藤しながらも、葛藤する自分をまるごと受け入れてくれることをカムパネルラに望んでいた。熱に浮かされるように他者への献身を語るジョバンニ。僕と一緒にと呼び掛けた先にはカムパネルラの姿は消えている。この瞬間のすれ違い。分かりあえたと思ったのに本当は分かりあえていなかったことを知る辛さ。ジョバンニはカムパネルラと透明な関係性を結ぼうとしたのだ。外観のコミュニケーションだけではなく、本当の心と心のコミュニケーションを望んだのだ。しかしそれは拒否される。

ジョバン二は結局、自分がうけいれられることだけを考え、カムパネルラのことを理解しようとする努力がたりなかった。自分の孤独を相手によって満たすことはエゴである。自分自身を捨てようとしたジョバンニにとっては矛盾である。

 

物語の冒頭 ジョバンニは先生に問題を当てられて答えられなく悔しい思いをする。

次にカムパネルラが当てられたが、彼はあえて答えなかった。ジョバンニを察して、黙っている。それを察して、先生は自分で説明を始める。相手を察することの素晴らしさ。ほんとうのさいわいのためには、相手への配慮が必要である。

 

カムパネルラは ジョバンニのことを思ったからこそ 自分を放棄して彼と一体化しようとしていたジョバンニをつきはなしたのであろう どんなに汚れていても自分を受け入れて、生きていかなければならない。そうしないと君のしあわせにたどりつけないのだよと。

カムパネルラはさびしそうな笑顔で答えていたのではないか。

 

最後にはジョバンニは、最初の孤独に比べより大きい孤独を感じ、一人で"ほんとうの幸"を求めていく事 の絶望的な遠さに気付いてしまう。ほんとうのさいわいは単なる自己犠牲ではない。カムパネルラはザネリを救うために河に飛び込んで死ぬ。ジョバンニの願う自己犠牲をおこなっている。しかし、カムパネルラは苦悩する。母は自己犠牲で死んだ自分を悲しむのではないかと。誰かを悲しませる形で幸福を実現してはいけない。

 

 

死と孤独、疎外、避けがたい別れ。

静謐なイメージと、祭りのイメージの対比。

 

ほんとうの神様、ほんとうの宗教、ほんとうのさいわい。銀河鉄道では様々な人があらわれ、途中下車していく。ほんとうのさいわいへの近づき方は大別して二つある。一つは、妥協である。これがほんとうのさいわいなのだと信じ込んで思考停止になることである。ジョバンニはこれを「にせもの」と呼ぶ。もう一つは、ほんとうのさいわいなどないとしてシニシズムに陥る道である。ジョバンニはこのどちらもとらず、苦悩を負い続けるという道を選択する。だからこそ、彼は銀河鉄道で一番遠くまで行けたのである。そしてこれを可能にしたのがカムパネルラ(共に行くものという意味を持つ親友)の存在である。結果的には二人は同じものを見ていても異なった考えを持つが、友がいたからこそ、自分自身を引き受けることが可能になったのではないか。ジョバンニの孤独の質はあきらかに変化している。それは愛につながる孤独である。

 

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

『農民芸術概論』」より

 

 


 

かえるくん、東京を救う 村上春樹

(「神の子どもたちはみな踊る」収録)

 


 

銀行員の片桐が家に帰ると、大きなカエルがいた。

かえるくんは片桐に、東京での大地震を防ぐ手伝いをしてくれと頼む。

大地震を起こす「みみずくん」と戦わなければならないので友達として応援してほしいと頼む。

 

はっきりいえば、片桐は冴えない男である

 

 

「私はとても平凡な人間です。いや平凡以下です。頭も禿げかかっているし、

おなかもでてるし、へん平足で、健康診断では糖尿病の傾向もあると言われました。

借金の取り立てに関しては部内で少しは認められていますが、だからといってだれにも

尊敬はされない。職場でも私生活でも私のことを好いてくれる人間は一人もいません。口下手だし人見知りするので友達をつくることもできません。ひどい人生です。

ただ寝て起きて、飯を食って糞をしているだけです。何のために生きているのかその理由も分からない。そんな人間がどうして東京を救わないといけないのでしょう。」 

 

「片桐さん」かえるくんは神妙な声で言った。「あなたのような人にしか東京は救えないのです。そしてあなたのような人のために僕は東京を救おうとしているのです」

 

「片桐さん」「ぼくはつねづねあなたという人間に敬服してきました。(中略)あなたは

筋道の通った、勇気のある方です。東京広しといえども、ともに闘う相手として

あなたくらい信頼のできる人はいません。」

 

「ぼくにはあなたの裕貴と正義が必要なんです。あなたが「かえるくん、がんばれ

、大丈夫だ、君は勝てる 君は正しい」と声をかけてくれるのが必要なんです」

 

 

 

この場面には感動して鳥肌が立つ。

「かえるくん」は、片桐を承認し理解してくれている。これこそ片桐がずっと探し続けていたものであるしもう手に入らないと諦念していたものでもある。

承認を「かえるくん」は与えてくれた。「みみずくん」は非寛容や悪意のメタファーである。非寛容や悪意は、無関心と同じベクトルである。他者に対する無関心、無理解、は悪意そのものである。

 

存在が存在するためには何が必要だろう。それは、存在を価値あるものと認めてくれる他者が必要である。

区別する必要があるからこそ、価値をみいだせるからこそ、名付けをして存在たらしめる。

片桐は東京の中の人として、一括して扱われてきた。僕たちは、石ころに全て名前を付けて区別をすることなどしない。

石は石として、一括して扱う。そいう視線を他者にも向けてしまっている。個人個人に関心を向けていないで暮らしていることが

多い。(災害で、何千人が死にました。との報道があるが、個別具体的な存在を数字にしたとたんに冷たい感じがすることとも少し関係がある。何千人分もの人生、悲しみ、喜びがあっただろうに、数字にしたとたん、人間はのっぺらぼうになる。)

 

片桐はかえるくんに認められて、本当に救われたのだ。たった一人の片桐を認めたのだ。

人は自力では自分を認められない。自分が認める他者が認める自分を内面化することで自分との合一を果たすことができる。

 

かえるくんは ロシア文学を愛し、自由に引用できる。そんなかえるくんに片桐は惹かれる。最後に、混濁した意識の中で 片桐はかえるくんの名前を呼ぶ。看護婦はそれを聞

きながら

「片桐さんはかえるくんのことが本当に好きなんですね」とつぶやく

片桐は、ロシア文学を読もうと決意する。かえるくんが片桐を理解してくれたように

片桐もかえるくんのことを理解したいという願いが生まれている。

 

かえるくんとみみずくんの戦いは想像力の中で行われているとの暗示がある。

つまり、かえるくんとみみずくんと闘いは、「想像力の欠如」対「他者への配慮」の戦争だったのだ。自分の分からないこと、分からないものは抹消・殲滅したいという欲望と、それでも、相手を理解しようとする気持ちの闘いであったのだ。しかし、あいにくかえるくんとミミズ君は引き分けになってしまった。

 想像力の欠如は暴力だし、それは無関心である。無関心の反対は、相手の存在を認めることである。しかし、ただ認めるだけでは、価値観のすみ分けでしかない。「自分はこう思うけれども、あなたはそう考えていても良い。だからお互い不干渉でいこう」というのがすみ分けである。そうではなく、表面上はバラバラだけれども、根源的には一つになれるという認識を持つことが必要なのである。逆を言えば、一つの根源があって、その表出として我々があるのだ。だから、自分を深く突き詰めていけば他者の存在と出会える。なぜならば、自分の世界を形作っているのは他者の寄与が大きいからである。こうして、自分自身を尊重できるように、他者を尊重できるようになる。

 

私たちが残酷になるのは、相手の顔をみないからだ。

無関心が人を殺す。そして世界は「私」に対して他者として現出する。

よそよそしいものとして現われる。

「私」にどんなに辛いことがあっても「世界」は平然と動き続ける。

自分が死んだとしても世界は相変わらず、何事もなかったかのように動いていく。

「私」に対して「世界」が無関心なのが非常に辛い。

しかし、物事に価値があると見出すのは自分である。価値があると思うから、名付ける。意味を見出す。

そのようにして意味あるものを組みあわせて、自分自身に意味ある世界をつくり出す。世界があって自分があるのではない。自分が世界を認識する限りにおいて世界は存在する。自分の死は一つの世界の消滅に他ならない。片桐の世界は消えかかっていた。彼は何にも異議を見いだせないし、自分自身に対しても意義を見いだせなかった。

そして世界の構築のためには他者の存在が不可欠である。他者によって、自己のまどろみから抜けだすことができる。他者は地獄であると共に、他者により自由になれるのである。

 

片桐はかえるくんの価値観に触れることにより、ロシア文学に興味を持つ。このことによって片桐の世界は豊饒になっていく。そして、お互いを「片桐さん」「かえるくん」と呼びあうことは、お互いがお互いの世界の中で確固たる位置を占めていることを表している。片桐がつい、「かえるさん」と呼んでしまうと、かえるくんはすかさず「かえるくん」と呼ぶように訂正を求める。片桐はかえるくんを「くん」付けしているのに、かえるくんは終始「片桐さん」と「さん」付けをしている。これは二人の関係性の非対称性を表している。関係の非対称性は「差異」を表していると考えられる。全く自分と同じ人を好きになることができるであろうか。答えはノーである。好きになれたとしたらそれは単なる自己愛の拡張である。では自分とまったく異なる人を好きになれるであろうか。答えはノーである。まるで理解できない人を好きにはなれない。自分と違うけれども、それでも相手を分かれるかもしれないという錯覚を持つ時に人を好きになれる。そこには「差異」がある。「差異」があるからこそ好きになれるのである。

 

関心=愛 の重要さを感じる。

 

関心とはなにか

共感するとはどういうことか

それはまずは自分のものさし(価値観)で判断を返さないことである。

『あなたには大切にしている世界がある』ということを認めながら一緒にいるということである。

 

この二つである。残念ながらこれは非常にエネルギーをつかう。

全ての人に関心を示すには、私たちはリソースが少なすぎる。

しかし、だからこそ、やる価値がある。諦念に走らないで、「それでも」という姿勢が必要である。

 

「かえるくん」は言う、「世界とは大きな外套のようなもので、そこには様々なかたちのポケットが必要とされている。友だちになろうとまでは思わなくても彼のような存在も世界にとってあってかまわないと思う。」まずは排除せずに「一緒にいる」ことから始めてもいいのではないか。

 

 僕たちの当たり前の日常生活のとなりに、あるいは私たちが立っている地面の下に、想像もつかないような闇がある。

そこでだれも知らない間に激しい闘争がおこなわれている。

誰かがどこかで必死に戦っている。

そのおかげで今の暮らしが奇跡的に維持されている。

そのことを思い出すと優しい気持ちになる。

人々はみな困難な戦いに立ち無かっているのだ。

困難な戦いに人知れず、誰からも賞賛されることなしに戦っているのだ。

 

 

かえるくんからの一言で片桐は自分の人生を価値あるものとして認めることができたのだ。

幸せになりたい。認められたいという要求はすべての人にある。私たちは「かえるくん」ではないので、相手のことを深く理解はできない。しかし、謙虚に相手を知ろうとする努力はできるはずである。

謙虚に相手の話を聞くことから始めてみよう。相互理解とは相互誤解のことである。と「かえるくん」なら言いそうであるけれども、そして一歩でも相手と歩み寄りができたらと思う。 

 

「かえるくんは」片桐をすくったのだ。それは片桐にとっての東京を救うことだったのだ。

 

 


 

福永武彦『草の花』 新潮文庫

 


 

研ぎ澄まされた理知ゆえにひたすら観念的な愛を追い求める主人公・汐見茂思。後輩の美少年、藤木忍へ「魂の共鳴」「本当の友情」と語る汐見。それにより仲間とはますます孤独を深めてゆく。藤木も一方的に「無垢」や「魂の美しさ」を求められることに困惑し、彼から離れようとする。やがて汐見は藤木の妹と恋愛関係に陥るのですが、彼の孤独は癒されることはない。彼はその儚く崩れやすい青春の墓標を、二冊の手記に記したまま、自殺行為にも似た手術を受けて、帰らぬ人となる。
 孤独な魂の疾走。汐見の孤独を藤木は分かち合えなかった。藤木は「あなたの孤独に私の孤独を重ねても零に零を足すようなもの。」と汐見を拒否する。孤独とは、結局は彼自身のものであり、終わりも始まりもない。また繰り返しもない。僕たちは真に心を許しあえる対象を見出すまで、傷跡を自ら癒しながら、この生を続ける他はない。孤独はまぎれもない人間の現実であり、愛は成功する・しないに関わらず孤独を強くする。孤独を否定的な意味で使用していない。孤独は弱いもの、不毛なものではない。弱い孤独によって愛した者はその愛も弱い。孤独と孤独がぶつかり合う共通の場が愛であり、孤独はエゴであり、愛も闘い、相手の孤独を所有しようとする試みである。愛はこの意味において、繰り返すもの として現われる。愛は先験的に挫折を内包している。挫折してもなお、追い求めるものとしての愛、それにより愛の自覚は深まっていく。人間の持つ根源的な孤独の状態。しかしこの孤独は消極的な、内に閉ざされた孤独ではない。相手を求めるものである。自分の孤独を通じて相手の孤独に繋がろうとする試み。これこそが愛である。それは、井戸を連想させる。井戸を掘り進めれば、地下水の層にぶつかる。そして他者と、別の個人とその広い層でつながる。誰からも離れた細い井戸を、掘り続けた挙句に、つまり孤独を極めた果てに、広い「人とのつながり」にたどり着ける。僕が言いたいのは、こういう繋がり方もアリだということです。個別具体的な孤独。それを通じて、通じ合えるという希望―それは挫折を内蔵しているーに繋がるのではないか。挫折は孤独を強くする。この孤独は愛を求める精神の活動である。愛によって自己の傷をいやされようとする愛ではない。孤独を充実させる方向で生を充実させることができるのではないか。

「への孤独」 「からの孤独」 と私は定義しています。

まず への孤独は相手を求める行為です。からの孤独とは相手からの拒絶です。

相手に無関心だとゼロベクトルですが、相手を思うと → ベクトルになる。このベクトルが大きいほど、挫折したら逆のべクトルになる。

愛が大きければ大きいほど挫折すると孤独は深まる。孤独が大きければ大きいほど強く愛せる。この循環が大事なのです。

 

絶対矛盾的自己同一にも繋がっていく思想だと思います。つまり、愛とは試みなのです。

 

孤独を重ねるのは不可能だけど、重ね合わせようとする

試み プロセスが愛なのだと思います。

孤独や悲しみは個別具体的なものだから、共有は決してできない。

その意味において愛は挫折する。しかし、お互いが孤独な存在であるということから繋がる回路もあるのではないか。孤独を深めることで繋がれる。孤独を深めるのは愛である。

愛とは常に試みである。そう考えます。

我我は孤独で弱い。だから繋がれるのだ。人間は利他的にはなれない。自己愛が先行してしまう。しかし人はこの「自己愛」のゆえにこそ、他者を愛し思いやることができるのだ。 「人が人間愛を感じるのは、わたしたちが弱いからだ。だから人といっしょになりたいと思うのだ。」ルソーはこう述べている。  

人間愛を育むためには、次の三つのことを知っておく必要がある。とルソーは言う。

人間の心は自分よりも幸福な人の地位に自分をおいて考えることはできない。

人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ。

他人の不幸に対して感じる同情は、その不幸の大小ではなく、その不幸に悩んでいる人が感じていると思われる感情に左右される。

人はどうすれば互いに愛し合えるのか。どうすれば互いに思いやりあうことができるのか。

他人を愛せとか、思いやりをもてとなど規範を持ちだしても仕方ない。ただ、自己愛によってのみ、他者を愛せるのである。

 

 

「僕は何を考えていたのだろうか、――恐らくは忘却というようなことを。」

「僕が生きているのは、この愛のためなんだ、観念的でもいい、夢を見ているんでもいい、ただ咎めないで欲しい。」

 

「人は全て死ぬだろうし、僕もまた死ぬだろう。
そんなことは初めから分かっている。
ただ、人はそれがいつであるのか予め知ることが出来ないから、
案じて日々の生活の中に、それが生きていることだと悟ることもなしに、
空しく月日を送って行くのだ。」

 

汐見にとって、藤木との友情の中に生きることが、本当の生であった。彼との透明な関係性のなかにこそ生きているという実感があった。藤木のいない日々はもはや生命はあっても「いのち」はなかった。彼は冷たくなった思い出にすがることによって生きながらえていた。しかしだんだん忘却が押し寄せてくる。だんだん味も分からなくなってくる。思い出の残りかすだけではもう生きていけなくなった。だからこそ、彼は自殺にも似た手術をうけたのであろう。死ぬ際に一人ぼっちはやはりさびしかっただろう。

 

 

 


 

トーマの心臓 萩尾望都

 


 

「これが僕の愛、これが僕の心臓の音」


雪の降る静寂の中、少年トーマは投身自殺をする。
誰からも好かれ、美しい容姿の彼の死に様々な憶測が飛び交った。
数日後、ユリスモールにトーマからの遺書が届く。その意味に
困惑し苦悩するも、トーマの存在を忘れるようにしたユーリ。
そんな中、トーマに生き写しの少年 エーリクが現れる。

エーリクにトーマの姿を重ねてしまう日々
ユーリはエーリクを拒絶しつつも惹かれていく。
その矛盾に彼は苦悩し、殺意すら抱いてしまう
しかし、エーリクの純粋な想いやオスカーの支えによって
少しずつ彼は心をひらいていくのであった。

ユーリに一体何が起きたのか。
なぜトーマは死ぬ必要があったのか。

 

それは、ユーリの心を救うためであった。そのためにトーマは命を投げ出した。
自身の死をもってユーリに愛と許しを与えるために。

 


トーマの愛は、特定への人物の愛だけではなく、普遍的な愛へと開かれている。

それは自分と他者との関係の問題であり、自分が信じるものとどう対峙していくかという問題でもある。

ユーリをすくったものとはなにか。救済とはなにか。


ユーリは過去のある事件により、信仰を棄てさせられた。そんな罪深い自分に悩み、自己否定に陥る。学校の友人達をはじめ、人間関係の一切を断ってしまう。神に愛される資格がない自分は、人を愛する資格もなければ愛される資格もない。そうユーリは結論づける。自らのうちに閉じこもってしまう。神との関係性、他者との関係性を断つことは絶望であり、罪であった。彼は自分の経験を受け入れることができず、内面的には壊れていた。ユーリの絶望は深い。彼は信仰を棄てさせられたことよりも、信仰を捨てた自分自身に絶望している。崇高な価値を求める心の中に、悪に惹かれ、誘惑に負け、堕落を求める部分があることを彼は深く自覚することになった。弱い自分自身それをユーリは受け入れることができなかった。それを治癒するためにトーマは自殺したのだ。 自分を犠牲にしてまで、ユーリは愛を受けるべき存在であるとトーマは証明した。そしてそれは無償の愛であった。ユーリは愛を受けたら愛を返さなければならない。愛すことのできない自分は愛される資格がないと考えていた。そこに、トーマからの愛を受けた。彼は、ただただ、自分は愛されていることに気付くだけでよかったのだ。ユーリはトーマからの自己犠牲的行為を負担に感じることもあるだろう。それと同時にそれほど自分の生は価値あるものだと知る。そして、その愛は返済されるものではなく、次の誰かへと受け継がれていくものである。それが他者との関係性の回復につながっていく。

 

自分は天使ではないと、「僕には翼がない」と云うユーリに、エーリクはただ一言「僕の羽をあげる」と伝える。この瞬間にエーリクはユーリの世界を回復することに成功する。トーマの犠牲によって赦され、エーリクの言葉によりユーリの世界は再び動き出す。



生きることに前向きになろうとしても、ユーリには無理だった。自己を愛せないものは、他者を愛せない。
コップから水があふれるように、他者への愛は生まれる。彼のコップは空だった

 

トーマからの遺書を受け取ったユーリは苦しむことになった。
ユーリには、理解できなかった。なぜトーマが死を選んだのか?
トーマが死を選ぶことが、なぜ「愛の証し」だというのか?


しかし、ラストの一枚の紙片によりすべては反転する。

 

本の間に挟まれた、一枚の紙切には以下のように書かれていた。
「ぼくは、ほぼ半年の間ずっと考え続けていた

 ぼくの生と死と それから一人の友人について

 ぼくは、成熟しただけの子供だということはじゅうぶん分かっているし

 だから この少年の時としての愛が

 この性もなく正体も分からないなにか透明なものに向かって

 投げだされるのだということも知っている

 これは単純なカケなぞじゃない

 それから ぼくが彼を愛したことが問題なのじゃない

 彼がぼくを愛さねばならないのだ

 どうしても

 今 彼は死んでいるも同然だ

 そして彼を生かすために

 ぼくはぼくの体が打ちくずれるのなんか なんとも思わない

 人は二度死ぬという まず自己の死 

 そしてのち 友人に忘れ去られることの死

 それなら永遠に

 ぼくには二度目の死はないのだ(彼は死んでも僕を忘れまい)

 そうして

 ぼくはずっと生きている

 彼の目の上に」


確かになくなった人はここには存在しない。
だが、脳裏には心の中には確実に存在している。透明な存在として存在している。
ここで初めて、生きている間では不可能だった「透明な関係」が生じる。死者の存在は透き通っている分、まなざしは深いところまでとどく。自分から死者に対する視線。死者から自分に対する目線。この二つは同じものだ。
死者からの目線は鏡なのだ。死者を通して初めて自己との透明な会話が可能になる。
自己を語りなおし、凝視する作業は苦しい。しかしトーマはそれを求める。トーマは自分を用いることで、ユーリの自己との和解の媒介になろうとしていた。

 

たった一人でもいい。自分を受け入れて理解してくれる人がいてくれればいい。しかしそんな他者はいない。
自分を受け入れてくれる人は自分以外にいないのだ。自己を受け入れること。それは他者の存在。とりわけ死者の存在が必要である。

大切な人の消滅は、新たな出会いである。

死は断絶ではない。虚無ではない。新たな出会いである。
死者とともに生きる。そうやっていきていけるのだ。

 

 

自己への拒絶感や純粋さゆえに生まれる死への憧憬。
少年ゆえに、透明で脆い心情が書かれた作品。

壊れやすい美しさからこそ、死で凍結させてしまったのだろう。
少年と死(タナトス)を結合させた傑作